- 阿達 夜潮音(あだち やちょうおん)
- 伊藤 道海(いとう どうかい)
- 歌川 秋南(うたがわ しゅうなん)
- 小川 蕃(おがわ しげし)
- 小田 喜平太(おだ きへいた)
- 桂 湖村(かつら こそん)
- 桂 誉章(かつら たかあき)
- 桂 誉春(かつら たかはる)
- 桂 誉正(かつら たかまさ)
- 北町 一郎(きたまち いちろう)
- 小泉 其明(こいずみ きめい)
- 小泉 蒼軒(こいずみ そうけん)
- 五明院 鳳冠(ごみょういん ほうかん)
- 酒井 憲次郎(さかい けんじろう)
- 坂口 安吾(さかぐち あんご)
- 坂口 仁一郎(さかぐち にいちろう)
- 桜木 たけし(さくらぎ たけし)
- 澤田 半右衛門(さわだ はんえもん)
- 清水 賢林(しみず けんりん)
- 鈴木 寅五郎(すずき とらごろう)
- 田中 国太郎(たなか くにたろう)
- 田中 吉平(たなか よしへい)
- 長生院 智現(ちょうせいいん ちげん)
- 長井 久左衛門(ながい きゅうざえもん)
- 長沢 予内(ながさわ よない)
- 中野 貫一(なかの かんいち)
- 新津 勝資(にいつ かつすけ)
- 新津 恒吉(にいつ つねきち)
- 西郡 久吾(にしごおり きゅうご)
- 伴 百悦(ばん ひゃくえつ)
- 本多 敬斎(ほんだ けいさい)
- 本多 文明(ほんだ ぶんめい)
- 本間 新作(ほんま しんさく)
- 本間 徳左衛門(ほんま とくざえもん)
- 松岡 酒造三郎(まつおか みきさぶろう)
- 吉田 千秋(よしだ ちあき)
- 吉田 東伍(よしだ とうご)
- 吉田 晩稼(よしだ ばんか)
- 和気 一郎(わき いちろう)
阿達 夜潮音(あだち やちょうおん)
本名は,義雄。新潟大学教育学部教授。
古川柳(江戸川柳)の研究家として著名な学者で,昭和43(1968)年文学博士となる。
昭和24(1949)年「夕刊にいがた」の日曜川柳の選者を担当していた時,大野風柳とともに川柳不毛の地といわれた新潟から川柳雑誌「柳都」を世に送り出す。
昭和43(1968)年「新潟日報文化賞」を受賞。
昭和51(1976)年「勲三等旭日中綬章」を受章。
伊藤 道海(いとう どうかい)
曹洞宗総持寺貫主。幼い頃から肺肋膜を病み,広大寺に起居して闘病と仏道修行に励んでいたが,真の信仰を求めるなかでようやく病弱から解放され,大本山総持寺へ行くことになった。
一雲水として修行中の明治31(1898)年寺が全焼,猛火の中を宝物や重要文書を運び出して抜群の功績をあげた。26歳のとき,選ばれて曹洞宗大学林で学ぶ。
明治44(1911)年総持寺が能登から鶴見へ移るとともに,副寺(ふうす) として10年間活躍した。
昭和10(1935)年曹洞宗管長,総持寺九世貫主となる。
※副寺:禅寺で会計をつかさどる役僧
歌川 秋南(うたがわ しゅうなん)
柄目木の真柄家の出身で,本名は兼太郎。19歳のとき江戸へ出て勉学に励み,その後帰郷。26歳で五泉の歌川家を継ぎ,家塾を開き五泉協会をつくって政治,法制を研究し,弁論を修練した。
明治31(1898)年町会議員となり,織物同志会を組織して織物の改良,販路の拡大を図り,さらに五泉銀行頭取をつとめるなど,地方の政治,産業,文化,教育などの振興に尽くした。
明治末期から大正初期にかけて坂口五峰が「北越詩話」の編集にかかると,それに協力して資料の収集,整理,草稿の作成など労を惜しまなかった。
大正12(1923)年五泉町教育会長となり,図書館を建設して講演部を設け,自ら経書,詩文などを講じた。
小川 蕃(おがわ しげし)
朝鮮医学界の功労者。
東京帝国大学医学部卒業後,大正9(1920)年京城医学専門学校外科学教授に就任し,朝鮮総督府医院で近代外科学の開拓に尽くした。大正15(1926)年医学博士となる。
昭和3(1928)年京城帝国大学医学部教授となり,熱心に医学生を指導し,門下から130余名の外科医を各地に送り出し,朝鮮医学界の発展に貢献した。
小田 喜平太(おだ きへいた)
チューリップの産業栽培に生涯をかけ,わが国最初のチューリップ球根の生産に成功した。
この決断と先見が新津小合(こあい) 地区に「東洋のオランダ」といわれる花園を開花させるきっかけとなり,小合地区は昭和30(1955)年頃から多種多様な園芸品を取り扱かうようになって,現在では花卉花木の生産地として全国に知られている。
桂 湖村(かつら こそん)
漢文学者。名は五十郎。新津に生まれ,幼少時に福島潟近くの分家の養子になった。
東京専門学校卒業後,「日本新聞社」に入社し,正岡子規と文芸欄を分担していたが,のち中国に留学した。帰国後,早稲田・東洋・国学院の各大学の講壇に立ち,晩年は早稲田大学の名物教授として親しまれた。また陶器研究でも知られた。研究著書「漢籍解題」は当時類のない中国学会の至宝として尊重された。
なお,文豪森鴎外の漢詩の師匠としても有名である。
桂 誉章(かつら たかあき)
新津組大庄屋,桂家第四代。
京都で書籍を収集し,邸内に「萬巻楼」と名づけた文庫を造った。この萬巻楼は,単に万巻の書を集めた文庫ということだけでなく,ここを拠点にして文化交流を通じて新津の文化に大きな影響を与えた。
また,俳諧に遊び,安永2(1773)年に「俳諧十論衆議拾遺」を出版,寛政6年(1794)には「俳諧三祖塔」を秋葉山に建立した。これは,近世越後の文学史を研究するうえで極めて有益な資料である。
桂 誉春(かつら たかはる)
新津組大庄屋,桂家第三代。
元文元(1736)年新発田藩より御用達を仰せつけられ,寛保元(1741)年には新発田城西門建立の功により庄屋格となり,明和3(1766)年には新津組22ヶ村の庄屋となる。
宝暦13(1763)年田家山に秋葉神社を創建し,以来この山を秋葉山と称するようになった。
安永3(1774)年下興野新田(旧豊栄市葛塚)に桂原山龍雲寺を建立し,葛塚の開発に尽くした。
桂 誉正(かつら たかまさ)
新津組大庄屋,桂家第六代。
文政3(1820)年阿賀野川・能代川の洪水に際して,処理が適切であったとして領主から苗字帯刀を許された。また天保の凶作に際して庭園を造り,窮民に日料を稼がせるなどして救済に尽くした。
文化面では,歌人の橘由之(良寛の弟)や国学者の飯塚久利,鈴木重胤などと交遊した。特に国学に傾倒し,桂家の国学資料は国学の地方伝播を知るうえで重要である。
北町 一郎(きたまち いちろう)
本名 会田 毅(あいだ たけし)
ユーモア小説など多数の著作が人々から愛されたふるさとの作家。
小向に生まれる。東京商科大学(現一橋大学)卒業後,「婦女界社」に入社,仕事のかたわら文学の創作を続ける。
戦時中は陸軍報道班員として主にマライ・スマトラで井伏鱒二,海音寺潮五郎,小栗虫太郎らとともに取材活動をした。戦後は文部省の嘱託を務め,昭和23年に「健康教室」を創刊し,78歳で退職するまで編集長として学校保健教育の普及に努めた。
詩や評論,翻訳,新短歌など多方面で創作活動を続け,ユーモア作家としても高い評価を得た。代表作は昭和15年に出版された自伝的な小説「啓子と稽介」。ユーモア小説のほかに,探偵小説,児童文学など多数の著作を出版し,ラジオドラマなどでも活躍し人々に愛された。
小泉 其明(こいずみ きめい)
文政11(1828)年現在の三条市を中心に発生した大地震の被害状況を実際に歩いて描き,折本型画帖にして残した。
この画帖を「懲震鑑」(ちょうしんひかん)といい,各地の惨状を彩色画29図にわたって詳細克明に描写している。 これは地震資料としては他に類をみないものであり,単に三条地震の実態を知るだけでなく地震学全般の考察にも有益な資料となっている。
小泉 蒼軒(こいずみ そうけん)
幕末の地理歴史学者。小泉其明の長子。父其明にしたがって越後・佐渡をくまなく廻り,父の越佐地図の完成を助ける。父の死後,越後の地理と歴史の集大成「越後志」の完成に生涯を費やして取り組んだ。
また,「小泉蒼軒日録」は40年間にわたって幕末の変動期を通して郷土とともに生きた日記集であり,当時の越後を知るうえでたいへん貴重な資料である。
五明院 鳳冠(ごみょういん ほうかん)
新津西島の蓮徳寺12世。中之口村で生まれ,23歳のとき蓮徳寺に入った。水原の無為信寺の徳龍に学び,さらに上京して学僧文人の雲華院大含に師事した。
天保の飢饉のとき,徳龍は本山の命により秋田城下で布教をしていたが,その惨状を見るに忍びず鳳冠に相談した。鳳冠はひそかに米麦を船に積み,新潟の回船問屋を通じ秋田へ輸送させた。
秋田藩主佐竹侯は大いに喜び,感謝の念を込め「黄鳥一声酒一杯」と自書して鳳冠に贈った。
慶応3(1867)年擬講(ぎこう)となる。
※擬講:浄土宗・浄土真宗大谷派の僧の学階の一つ
酒井 憲次郎(さかい けんじろう)
わが国航空界の黎明期に傑出したパイロット。
大正14(1925)年一等飛行操縦士の免許を取得し,翌年小樽新聞社に入社した。
大正15(1926)年小樽新聞社の複葉機「北海一号」で千歳着陸場へ降り立ち,このことが千歳空港の幕開けとなった。
昭和3(1928)年国際航空連盟から各国の最も優秀な記録を樹立したパイロットに贈られる「ハーモン・トロフィー」を受賞した。
昭和7(1932)年日満議定書調印の歴史的光景を収めたフィルムを日本へ空輸中,鳥取県沖合いで遭難殉職した。
没後70周年にあたる平成14(2002)年千歳着陸場へ降り立った姿を現すブロンズ像が新千歳空港に建立された。
坂口 安吾(さかぐち あんご)
作家。坂口仁一郎の五男,本名炳五。
昭和6(1931)年に発表した「風博士」「黒谷村」で新進作家として認められ,昭和21(1946)年戦後の混乱期に発表した「堕落論」「白痴」の反俗的態度や文明批判が当時の日本の人びとの精神面に大きな影響を与えた。
新潟を離れた安吾は,今は新津にある歴代坂口家の墓所に眠っている。
坂口 仁一郎(さかぐち にいちろう)
政治家,漢詩人。
郡会議員,県会議員歴任後,明治35(1902)年衆議院議員に当選して国政に参画し,以後代議士として中央政界に重きをなした。この間,郷土の発展に尽くした功績は大きく,阿賀浦橋の架橋,新発田街道の新設,阿賀野川改修の促進などはいずれも仁一郎の努力によるものである。
また,衆議院議員としての政治活動のほか,漢詩人「五峰」として越後全域にわたる古今の漢詩文を30年余りも採集し,これを集大成して「北越詩話」と名づけ刊行した。これは日本の名著の一つに数えられ,好個の漢文学史であるとともに越後文学史でもある。
桜木 たけし(さくらぎ たけし)
農民歌人。本名は,阿部長蔵。
戦後,国民全体が自信を失い,無気力になる人が増えた。桜木は文学の力がこのような人びとの心を救うことを知り,昭和29(1954)年「ひしのみ詩社」を結成し,短歌雑誌「くろ土」を発刊した。農民魂を歌うこの雑誌は多くの人たちに愛され,桜木の死後も弟子たちに引き継がれ,平成16(2004)年9月号で通巻300号に達し,現在も続いている。
澤田 半右衛門(さわだ はんえもん)
天文2(1533)年新津で最も古い用水堰である一之堰を創始した。子孫は歴代半右衛門を襲名し,堰守を勤めた。
一之堰は能代川をせき止め,川の右岸集落全体の耕地を潤したため,その恩恵は計り知れないものがある。
清水 賢林(しみず けんりん)
医師,私塾経営,漢詩人。本名を由といい,由斎と号して俳句も詠んでいた。
三代目賢林を継ぎ医業をするかたわら,私塾「養起館」を開いて郷土の子弟を教育した。
賢林は人びとがつつが虫病の原因を知らず,農民が全く恐れることなく河川敷の耕地で仕事をし,そこでつつが虫に刺されて死んでしまうことに心を痛めていた。
また信仰の力ばかりを頼って祈祷をしてもらうだけで治療をせず,助からない人もたくさんいた。そこで,嘉永5(1852)年「弁恙虫」を著し,民間のつつが虫迷信を打破しようとした。
鈴木 寅五郎(すずき とらごろう)
新津町の名町長。
明治35(1902)年新津町長に就任。以後,明治・大正・昭和にわたり30余年間,町政に携わり町の発展と町民の福利増進を旨として町政を進めた。とりわけ教育環境の整備に意を用い,小学校の統合,県立高等女学校の誘致実現に尽くした。
また,飲料水に恵まれない新津にとって上水道の敷設は全町民の夢であり宿願であったが,昭和7(1932)年幾多の困難を乗り越えてこの大事業を完成させ,近代都市としての礎を築いた。 昭和7年(1932)町長の職を辞したが,豊かな人間性と徳望によって名町長としてその人格を慕われた。
田中 国太郎,吉平(たなか くにたろう,よしへい)
養蚕の振興に尽力した兄弟。
鵜出古木に生まれる。明治初年に養蚕による地域振興に興味を持ち,弟の吉平と共に,信濃川縁に桑苗を植栽する一方,蚕種の改良にも努力し,後進の指導も行った。明治45年,国太郎は「蚕業夜学会」を開設し,31名の講習生を指導したほか,大正期には自分の桑園を試験場として後進の指導に役立てた。昭和4〜10年には小須戸町長を務めたほか,短歌や俳句でも活躍した。
吉平は福島県伊達郡立木村の朝岡鉄蔵の下で養蚕業を学び,帰郷後,兄国太郎と共に養蚕事業の普及・向上に努め,各種品評会で数々の賞を受賞した。
長生院 智現(ちょうせいいん ちげん)
東本願寺嗣講。覚路津村の農家で生まれ,14歳のとき西光寺で剃髪し,その後江戸や京都で修行して天台宗,浄土宗,禅宗を修めた。
享和2(1802)年出雲崎の浄玄寺住職に就任。その後,良寛の妹みか子を妻に迎えている。
文政元(1818)年高倉学寮寮司,翌年擬講,天保2(1831)年嗣講となり,多くの経典を講じた。
天保4(1833)年70歳の秋,30余人の僧に招かれて新潟の勝念寺に赴き,勧学講を開いて盛会であった。
長井 久左衛門(ながい きゅうざえもん)
新津は石油地帯のため,昔から良質の飲み水に恵まれなかった。文化4(1807)年,当時の新津町の庄屋である長井久左衛門は水脈を探しているうちに,秋葉山のふもとで清泉を発見し,自費で設備を整えて町民に自由に汲ませた。
この清泉は「幸清水」(さきしみず) と命名され,その後も尽きることなくわき続け,昭和7(1932)年上水道が完成するまで,およそ130年間町民の命の泉となった。
長沢 予内(ながさわ よない)
荻島新田名主,小須戸組社講,医師。
新発田藩医の松田本庵に医学を,丹羽思亭に漢学を学び,さらに文政11(1828)年から翌年まで江戸の松崎慊堂のもとで学び,かたわら医学も修めた。帰郷後,天保2(1831)年には小須戸組社講に任命された。
また私塾「反求堂」を開いて漢学を教え,漢方医を開業して治療にあたった。
安政5(1858)年小阿賀野川の荻島の渡し場で船が転覆して溺死者がでたとき,「救未溺碑」を撰文,建立して死者を悼んだ。
中野 貫一(なかの かんいち)
わが国の石油産業の発展に大きく貢献し,長者番付の十指に数えられ,一代にして巨億の富を築き,「日本の石油王」といわれた。
明治36(1903)年苦難の末ついに機械掘りによる商業規模の油田発掘に成功した。これを契機に,にわかに石油ブームが巻きおこり,新津油田は明治43(1910)年の最盛期には年産高約17万キロリットルに達し,名実とも日本一になった。
また,大正7(1918)年には私財100万円を投じて「中野財団」を設立した。これは育英事業などを目的としたもので,郷土出身の有益な人材の発掘に寄与した。
新津 勝資(にいつ かつすけ)
上杉謙信・景勝の時代に戦陣に明け暮れた典型的な武将。丹波守を称し,三条城主山吉家から出て新津家14代を継いだ。
敬神崇仏の念が篤く,祖先が金津の地に奉祀した掘出神社を新津の町に遷し,朝日の普談寺観音堂の再建に願主となり,菩提寺である正法寺を大鹿から新津に移転させるなどしている。また,一之堰の創始者に特典を与えて民生の安定を図るなど,領民の撫育にも意を用いている。
新津 恒吉(にいつ つねきち)
わが国製油業界の功労者。
明治33(1900)年新津油田の有望性を見込んで滝谷に製油工場を設置したが,火事で工場が消失したり,水害にあったりした。しかし,持ち前の不屈の精神で再起を図った。やがて中野貫一に認められ,経営の基盤が固まった。
新津の製油界に37年間活躍したが,昭和12(1937)年新潟に移り大工場を新設する。その後,飛躍的発展をなしとげ,製油業界にゆるぎない地位を築いた。
西郡 久吾(にしごおり きゅうご)
良寛研究の先覚者。
権力や名声のためばかりに必死になっている世の中の人のために,解熱剤として良寛の書物を出版しようと決心し,大正3(1914)年教職のかたわら十数年にわたって良寛の資料収集と集成に没頭し,ついに「北越偉人沙門良寛全伝」の出版にこぎつけた。
良寛の業績を学問的に研究した書物は,これが初めてである。
伴 百悦(ばん ひゃくえつ)
会津藩士。明治戊辰の役,越後口の戦いに参戦出陣した。
戦後,新政府軍の命令で戦死者の埋葬が困難な状況下において,士族の身分を捨て遺体埋葬処理に奔走した。
その後,新政府軍の監察方の勝手気ままな取り締まりや町民に対する残酷な仕打ちに怒った百悦らは,束松峠でその監察方を斬った。百悦は大安寺の坂口津右衛門を頼り慶雲庵に身を寄せたが,追手に取り囲まれ自刃した。
自刃地の慶雲庵跡には百悦の墓碑が建てられている。
本多 文明,敬斎(ほんだ ぶんめい,けいさい)
本多文明,敬斎親子は医業のかたわら実学館という塾を開いて子弟に学問を教えていたが,明治維新の初め,医学の普及と進歩を図るため医学館を設立したいと考え,水原の越後府へ願い出た。当時の壬生知事も大いに賛意を表して自ら「仁寿館」と命名したが,不幸にも父子とも相次いで没したため,ついに実現には至らなかった。
当時,一民間医師の手によって医学校の設立が企画推進されたことは,新潟県の医学史上,たいへん特筆すべきことである。
本間 新作(ほんま しんさく)
県経済界の先駆者。
第四銀行の創立を始め,新潟米穀取引所,日本石油,鉄道会社,水力電気会社,新潟鉄工所等,多くの事業に参画,特に農事改良に尽くし,藍綬褒章を授与された。また,長年郡農会長として郡政村政に貢献した。
本間 徳左衛門(ほんま とくざえもん)
下新村の庄屋,地主,俳人。白河・会津・村松藩の御用達を勤めた資産家で,39歳からは養子の新作に家事を任せて遊芸にふけった。
俳諧は幕末の三大家の一人である遠藤蒼山に師事し,「古木庵契史」と号した。
元治元(1864)年に出版した亡父の13回忌追善句集「ひらかさ集」の橘田春湖の序によると,春湖は嘉永元(1848)年に来遊しており,25歳の徳左衛門も影響を受けたと思われる。
徳左衛門は数多くの俳書の編著・蔵書を行なって,俳句を地域に広めた。
明治7(1874)年新作は「契史発句集」を出版した。
松岡 酒造三郎(まつおか みきさぶろう)
治水功労者。
新津は阿賀野川と信濃川に囲まれ,農業用水には恵まれていたが,たびたび川が氾濫するという水害があった。松岡が最も心血を注いだのはこの治水事業で,特に荻川地区の低地水腐田の開拓と排水である。
明治43(1910)年松岡の努力により覚路津排水機場が稼動を始め,長年水害に苦しんでいた人たちを救った。また私財を投げ打って長割地区を開拓し,農民の生活を助けたりした。
吉田 千秋(よしだ ちあき)
名曲「琵琶湖周航の歌」の原曲を作曲した。
大正4(1915)年に発表した「ひつじぐさ」の歌は,旧制第三高等学校(現京都大学)で愛唱されていた。大正6(1917)年のある日,この美しい曲に旧制第三高等学校の琵琶湖周航のクルーの一人,長野県出身の小口太郎が新たに詩を付け,琵琶湖畔の今津の宿で合唱したのが「琵琶湖周航の歌」の始まりである。後にこの歌は国民的愛唱歌になるほど,人びとからたいへん愛されている。
吉田 東伍(よしだ とうご)
不朽の大辞書「大日本地名辞書」の編纂を,独力でなしとげた歴史地理学者。
明治28(1895)年から13年間かけて完成したこの大著は,実に5,000ページを超え,学会に揺るぎない金字塔を打ち立てた。後に早稲田大学教授となり,明治42(1909)年には文学博士の学位を授与されている。
吉田 晩稼(よしだ ばんか)
戊辰戦争前後の約10年間大安寺の坂口家に遇した遊歴の文人で,本名は寿平,香竹・好竹とも号した。
長崎で生まれ,江戸へ出て高島秋帆につき蘭学と銃隊法を学んだ。その後越後へ行き,坂口家に招かれ,家塾で子弟の教育にあたり,求められて秋葉山で花火を上げたりした。
また書に優れ,楷書の雄渾な筆力に名声があり,近郷の富豪は競ってその書を手に入れたという。戦後,靖国神社や大蔵省の標柱は晩稼が揮毫した。新潟にもいくつか晩稼の揮毫による石碑が残っている。
和気 一郎(わき いちろう)
金津村の万年村長。
大正3(1914)年村長に推され,以後,昭和20(1945)年まで32年の長きにわたり村長の職にあって,万年村長といわれた。 金津村は当時,石油王といわれた中野家の後援があり,近郷でも裕福な村であったが,「農業立村」をめざし基本金を蓄積して財政基盤を固めた。また,大正14(1925)年から20年間「金津村報」を発行し,村政の現状と社会の動きを村民に報告して村内の融和と福利の増進を図った。
和気は頭脳明晰,行政手腕卓越との定評があったが,至って謙虚であった。



