花き園芸の歴史

戦後の復興 (昭和20年〜)

球根の栽培

敗戦という形で迎えた太平洋戦争の終結は大きな痛手となって国民にのしかかり、平和産業(贅沢)である園芸の復活は、簡単にはいきませんでした。昭和20年(1945年)の大不作に端を発し、さらには多数の引揚者や復員者をかかえ日本は大きな食料難に見舞われました。

戦後復興の大きな基礎となったのは小合村での保存球根でした。

球根の栽培

昭和21年(1946年)県球根原種保存圃場が小合村の高山清吉氏の農場に設置され、チューリップの球根を高山智司良氏、田中清二郎氏らが懸命に増殖するなどし、その後再び園芸品の生産熱が高まっていきました。

昭和23年には新潟県花卉球根輸出協会が発足し、チューリップ球根と牡丹の輸出を再開することになりました。

昭和24年からは田中清二郎氏が管理する小合の原種圃場で農事試験場園芸部の協力の下、チューリップの新品種育成実験を開始しました。しかし、保存栽培されていた球根は戦前にオランダで育成された古い品種が多く、また、保存栽培中にウイルスなどの原因 で退化現象が発生するなどして、品種の更新は急務となってきました。そこでようやく新潟県は重い腰をあげ補助金を支出し、昭和27年には26万8000球、28年には33万4550球をオランダから輸入し、昭和29年まで50品種を導入しました。新潟県の支出した補助金は523万円余りでした。

県が輸入球根補助金を支出するようになってから、生産者の要望もあり球根の生産、輸出の整備を計るため県の指導で昭和28年(1953年)1月に「新潟県花卉球根農業協同組合」が新潟市に設立されました。

昭和29年(1954年)にはチューリップの栽培面積は戦前の面積をこえ、小合地区でも着実に栽培面積を増加させていきました。

小合から輸出された球根は、昭和26年(1951年)に10万球に達し、昭和28年(1953年)11万7250球、昭和29年(1954年)には13万3851球にもなりました。

一時は、球根の腐敗病の発生によって生産を停滞させた事もありましたが、昭和30年代はおおむね順調に生産量をのばしていき、昭和22年(1947年)新潟県全体で7haあった栽培面積は昭和30年には115haまで拡大しました。

従来ほとんど放任されていた新潟県の球根行政は、球根の品質などいろいろと問題がで始めた事から、昭和33年2月には「新潟県球根検査条例」を施行し、激発する腐敗病に対処することになりました。また、従来は集荷業者によってバラバラに行われてきたチューリップ、アイリスの球根流通も昭和36年6月に球根農協によって一元集荷が行われるようになりました。

その後、昭和41年(1966年)、球根農協は七日町(新津市内)に移転しますが、長年自由流通になれていた新潟で、この一元集荷は収拾がつかなくなり、この制度は昭和42年(1967年)で消滅してしまいました。

流通一元化に失敗や、パイロット事業の失敗などの余波を受け、再建団体に指定されるなどの憂き目を見ることになりました。

しかし、職員の努力と県の流通機構へのてこ入れなどで予定年次よりも早く再建整備を完了。昭和50年には五泉市に集出荷冷蔵処理施設を設けるなどますます発展していきました。

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