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区について

区の歴史

北区は、越後平野の生い立ちそのもの
それでも昔から人は住んでいた!
阿賀野川の堀割
福島潟の干拓
政令指定都市・新潟市の原動力―新潟東港―

北区の合併のあゆみ
年表(明治)
年表(大正)
年表(昭和)
年表(平成)
福島潟上空から(平成15年8月16日撮影)



北区は、越後平野の生い立ちそのもの

 北区の地形は、中央部葛塚から北部の日本海までに、海岸線と平行に形成された砂丘列地帯が発達しています。標高20メートルを超えるところもあります。信濃川や阿賀野川などが吐き出す大量の土砂が、海流と季節風の力によって生み出されたもので、新潟砂丘と呼ばれています。内陸から10列あるとされる砂丘列が、北地区では9列みることができます。
 南には阿賀野川や駒林川の氾濫原であった豊栄低地が広がっています。東南には福島潟があり、流出する新井郷川は日本海に注いでいます。
 正保2年(1645年)の新発田領絵図によれば、新井郷川は嶋見前潟から流れ出る加治川・新発田川と合流し、新崎の南付近で阿賀野川へ流れ込み、その阿賀野川は信濃川と河口で合流し、ようやく日本海へ流出していました。砂丘にさえぎられて水の出口がなく、河川は西へ西へと流れていました。
 北区は、まさに越後平野のおいたちそのものを物語る典型的な地域です。

越後平野地形区分図(PDF形式、178KB)
越後平野地形区分図


それでも昔から人は住んでいた!

 北部の砂丘地帯を除く福島潟や豊栄低地は、標高は0〜2メートル未満が大半で、洪水による湛水の常襲地帯です。こうした地域でも昔から人は住んでいました。
 北区には原始・古代・中世の遺跡が111カ所発見されています。出土遺物などから、北区の大地に人々が初めて痕跡を残したのは砂丘上です。一番内陸にある砂丘の上黒山遺跡、法花鳥屋遺跡では、およそ5,500年〜5,000年前の縄文時代前期後半〜中期初頭の土器が発見されています。このことから内陸にある砂丘ほど形成時期が古いことがわかりました。引越遺跡、鳥屋遺跡では、およそ2,500年前の縄文時代晩期末の土器や石器がたくさん出土し、定住したことがわかっています。稲作が行われていたかは不明ですが、出土遺物から魚や貝、小動物、木の実を採って暮らしていたと思われます。引越遺跡は引き続き、弥生時代も営まれます。
 古墳時代になると大規模な遺跡が多く、上黒山遺跡、松影遺跡の砂丘上のほか、葛塚遺跡、正尺遺跡など旧大口川自然堤防や上土地亀遺跡、城ノ潟遺跡など駒林川自然堤防へも進出しています。稲作農耕に伴う低地の開発が本格的に始まったことを物語っています。
 奈良・平安時代になると福島潟の東岸や南岸にも遺跡が増加し、人々が積極的に低湿地帯に進出していきます。一方、砂丘地帯の新潟東港の出山下層遺跡・太郎代遺跡、神谷内遺跡では塩作りが行なわれていました。
 中世の遺跡は、砂丘上の出山上層遺跡、横井遺跡、阿賀野川自然堤防の下前川原遺跡、森下遺跡で集落が営まれました。城館としては、長場館、城山館、引越城が知られ、さまざまな伝説が今日に伝えられています。また、太郎代、太夫浜、神谷内、里飯野、上堀田などに出湯系石仏が点在し、人々の生活を探る手がかりとなっています。
鳥屋遺跡出土縄文土器

鳥屋遺跡出土縄文土器


阿賀野川の堀割

 江戸時代以前、砂丘に遮られて荒川河口から信濃川河口までの間に、日本海に直接流入する河川はありませんでした。そのため、人々は常に水との闘いを余儀なくされていました。
 新発田藩は、紫雲寺潟干拓や福島潟開発を目論み、享保15年(1730年)に幕府の監督の下、阿賀野川を松ヶ崎で掘り割り、日本海に直接流す工事を行いました。この工事には、新潟湊の水位の低下を心配する新潟町の猛反対がありました。そのため、増水分だけを流す堀とすること、堀割が破壊されたらすぐに復旧すること、湊として使用しないことなどを条件に実施されました。
 しかし、翌年の春の雪解け水などで、堀割は本流となってしまいました。この結果、阿賀野川の水位は4尺(約1.2メートル)も下がり、島見前潟は美田となり、福島潟周辺にも広大な干上り地ができたといわれます。以後、阿賀野川右岸の開発は急速に進展することとなり、葛塚をはじめ多くの村が成立しました。反面、新潟湊への水量増加のための工事や用水の確保のための新江用水の開削など多くの負担を背負うこととなりました。
阿賀野川河口(平成5年7月撮影)


福島潟の干拓

 阿賀野川の松ヶ崎開削で、広大な開発可能な土地ができると、幕府は宝暦4年(1754年)福島潟周辺の33カ村を幕府領とし、潟の開発を頸城郡鉢崎村(現柏崎市)の山本丈右衛門に許可しました。丈右衛門は潟に流れ込む水量を少なくするため加治川や新発田川の改修、新太田川の掘削などを行い、新鼻や太田地区など89町歩(約89ヘクタール)を開発し、明和7年(1770年)病死しました。
 寛政元年(1789年)には、水原町市島徳次郎をはじめとする13人衆に受け継がれます。開発する場所を土手で囲み、中にマコモを植えて土砂を沈殿させ、水を抜いて水田にする方法が行われました。また、潟に流入する河川の上流から土を流し、潟の底を高くする方法もとられました。さらに、潟の全面開発を目指し、浜茄子新道(県道豊栄・天王線)、天王新道、山倉新道(主要地方道新潟・五泉・間瀬線)の堤防を築き、潟を分割しましたが、洪水で決壊し、不成功に終りました。13人衆の開発面積は潟の周囲全面におよび452町歩でした。
 文政7年(1824年)には、潟周辺は新発田藩の預地となりました。藩では、阿賀野川から新井郷川への逆水止めの工事を実施したり、土流しの手段を積極的に行いました。また、各新道の堤の強化をするとともに、ジョレンで潟中の泥を掻き上げて田に入れ、田畑の安定を図り、452町歩の耕地を開発しました。
 安政2年(1855年)新発田藩は潟水面540町歩を、葛塚の斎藤七郎治や内沼の佐藤名平など15人に譲渡しました。このことは、近世土木技術の限界を認識し、潟の全面干拓が放棄されたことを意味します。その後、小規模な開発が行われますが、明治44年(1911年)に、潟は天王市島家の所有となりました。
 昭和31年(1956年)潟は市島家から買収され、昭和36年(1961年)の新井郷川排水機場の完成を足がかりに、昭和43年から国営干拓が始められました。北側を遊水池として残し、169ヘクタールの農地を生み出して、昭和50年(1975年)に完工しました。阿賀野川の松ヶ崎開削以来、246年後のことでした。

福島潟開発状況図(PDF形式、144KB)
福島潟開発状況図


政令指定都市・新潟市の原動力―新潟東港―

 新潟東港を核とする「新潟東港工業地帯」は、新潟市と聖籠町にまたがり、全体面積1,533ヘクタール、うち工業用地909ヘクタールで、200社を越える多様な産業・企業が進出し、日本海側最大級の工業地帯です。
 昭和38年(1963年)7月、船舶の大型化に伴い、拡張整備の限界であった新潟港(西港)とは別に、東港の建設工事が太郎代で開始されました。翌年3月には、新潟地区が地域間格差を是正する「新産業都市」の指定となり、昭和42年6月には国際海上輸送網の重要な拠点港として、日本海側最初の「特定重要港湾」の指定を受け、東港開発事業の拍車がかかるとともに、経済発展への期待が一層高まりました。
 昭和44年11月に開港した後、LNG(液化天然ガス)や石油備蓄などエネルギー基地として、さらに、貿易貨物のコンテナ化に対応した5万トン級バース(着岸壁)、コンテナ荷役用のガントリークレーンなど港湾施設の整備が進みました。この間、昭和55年トランスシベリアコンテナ航路、昭和63年東南アジア航路・釜山航路、平成7年中国航路を就航させ、同年6月に国際海上コンテナ輸送に対応するターミナル設備を備えた日本海側唯一の「中核国際港湾」となりました。
 さらに、平成8年3月新潟FAZ(新潟県地域輸入促進計画)が国の承認を受け、新潟空港や日本海東北自動車道などの高速交通網を活かした国際物流拠点としての機能の充実が進められています。
 着工以来、44年を経た東港開発計画は、平成18年度で終了しましたが、政令指定都市新潟市が目指す「世界とともに育つ日本海政令市」の実現と地域経済発展の原動力として新たな躍進の歴史を生み出していきます。
国際コンテナ埠頭完成