浦田遺跡から古墳文化時代後期の遺跡が出土され,およそ1,400年前には稲作や狩猟をし,生活していた形跡があります。また,西川流域以東には十世紀以前の住居跡などの遺跡が数多く発見されており,遺跡の所在の特徴として,西川右岸の自然堤防上を占地するものと,鎧潟の北方の低平な水田地帯を占地するものに大別されることから,西川流域と鎧潟を中心とした地域に集落をつくり,生活していたと思われます。 町制に関する地名が初めて登場するのは,寛正4(1463)年の山城国嵯峨の持地院が上田御局 にあてた文書に「曽祢村」の文字が登場します。 曽根村は京都府の持地院の領地であったと考えられ,その後,元和4(1618)年から長岡藩の領地で蒲原組に属していました。元和6(1620)年には曽根組が設置され代官所が置かれました。 曽根代官所は長岡藩の穀倉地帯の要として,また,長岡藩の六か組の一つの曽根組を支配するために,南は粟生津,北は新潟村,西は岩室,東は漆山,五ノ上までの近隣77か村の行政,司法,徴税を司るため,現在の曽根小学校地内に,慶応4(1816)年までの約250年間設置されていました。発祥当時の曽根村は,西川右岸の自然堤防上に出来た村落であり,西川の水運を重要な交通手段として生活を営んでいました。 明治22年には、全国的な市制・町村制施行と同時に、それぞれの地域に33あった村が、鎧郷村・西川村・曽根村・升潟村の4村に合併しました。さらに,明治34年11月には、鎧郷村と西川村が合併し鎧郷村となり、昭和5年12月に曽根村が町制施行で曽根町となりました。昭和30年3月には曽根町と鎧郷村が合併し、西川町(にしがわまち)。その後、西川町と升潟村が合併し、西川町(にしかわまち)となり、平成17年3月新潟市と合併しました。