81万人の港町・新潟

II 記念講演 「日本海海運の展開と新潟湊」
原直史氏 (新潟大学人文学部助教授)


原直史

3 日本海海運の中の新潟湊

 そうしたことを踏まえて、新潟町のありさまを見ていこうと思います。すでに御存じの方も多いでしょうが、もとは信濃川と阿賀野川が合流、あるいはごく近いところで海に注いでいたところ、そこで発展した町でありました。ここに出しましたのは正保2(1645)年の「越後国絵図」(資料集30ページ)ですが、信濃川と阿賀野川は、間に島がありますので離れているといえば離れている、合流しているといえば合流しているという形で日本海に出ていました。この時期には周辺に3つの湊がありました。一つは新潟、一つは沼垂、もう一つは間にある蒲原でした。このように港町が河口を囲むあり方は、遅くても戦国時代までには確立していたと考えられています。この3つの港町は河口にできた町ですから、川の変化によって大きな影響を受けました。
 新潟町は1617年に蔵王(長岡市)の堀直寄が町の整備を行うんですが、この時整備された町は現在の新潟ではありません。この図で既にたくさんの島があるのが確認されますが、この島の中の一つに移行していくんですね。それが1655年。白山島にほぼ平行移動のような形で移動します。その移転した部分が、現在の古町通などを含んだ新潟の市街地です。
 一方、沼垂町の方はもっと大変で、17世紀に4度も移転を余儀なくされます。新潟側には島や砂州ができて船が着岸しづらくなり、だから島へ移転しようとなったのですが、対岸の沼垂はどんどん土地が削られていくんですね。削られることで4度も移転する。沼垂町は1684年にほぼ現在地に移転しました。17世紀前期には阿賀野川に面した港町だったのですが、移転を繰り返し、信濃川を挟んで新潟町と向き合う港町になった。このことで新潟町と河口の権利を巡って争うことになります。何度かの争いに敗れることで、沼垂町は港町としての成長を大きく制限されてゆくことになったんですね。
 新潟は砂が堆積して川に向かって町が伸びていったけれど、沼垂は土地が削られたらもっと奥に町を作ればいいのですが、また、いずれ削られてしまうような場所に町を作ってしまう。川についていこうとする移転のありさまは、川に貼り付いていることがいかに重要であったか、ということが言えると思います。
 後に松ケ崎の堀割工事が行われ、阿賀野川の本流が現在の地に移ってしまいます。それで大きな変化が生じるのですが、時間もありますので先に進みます。こうした中で新潟町はどのような機能を果たしていたか。日本海有数の港町であったことは既に御存じと思います。元禄10(1697)年にさまざまな物資が新潟に入って来ていたという資料(資料集31ページ)がありますが、この時期のありさまというのが非常によく分かります。もう時間が過ぎていますので、かなりはしよってお話させてもらいますが、新潟町は元禄10年には3,500艘の船が入ってきていました。それ以降18世紀はがくんと減って1,000艘台。19世紀に二千数百艘まで持ち直すんですが、3,500という数字は2度とありませんでした。従って新潟湊の最盛期は元禄年間と言われるのですが、その間日本海海運というのは大きく変化しているので、それを含めて考えなければならない。例えば元禄の3,500艘と19世紀の二千何百艘では1艘の船の大きさが全然違うんですね。幕末にかけての北前船は、元禄のころの弁財船と比べるとものすごく大きくなっています。ですから、どちらが新潟町が栄えていたかといえば、私は、もしかしたら幕末の方が栄えていたのではないかと思います。

新潟湊の年間入船数(『新潟市史』より)
概数
元禄10(1697) 3,500
享保年間 3,200
享保18(1733) 2,460
宝暦7(1757) 1,571
明和8(1771) 1,700
寛政5(1793) 1,463
文化元(1804) 2,566
文政元(1818) 2,802
天保元(1830) 3,121
弘化元(1844) 1,994
嘉永5(1852) 2,626
文久3(1863) 2,218
文政六年頃の新潟町の絵図

4 新潟町の構造

 あと幾つかお話を用意してきたのですが、はしょらざるを得ません。申し訳ございません。最後に、川に沿った新潟町がどういう姿をしているか、ということを申し上げて話を終わりたいと思います。ここに挙げた図(資料集32ページ)、新潟町の基本的な構造は、信濃川に平行する町並みであります。御承知のようにこちらに後に西堀といわれた寺町堀、こっちには東堀となった片原堀という、信濃川に平行する2本の堀があり、間に古町、本町、信濃川に近いところに大川前という3本の通りがある。これが基本的な構造です。そして町を挟むように白山神社と日和山が両端にあった。寺町が西の端に並んでまん中に町。これが明暦以降、現在まで続く新潟です。図は慶応2(1866)年、幕末の新潟町の様子ですが、この辺の地は元あったところから外に展開した地域で、洲崎と呼ばれます。そして毘沙門島。こうした地域は砂州だったのが、18世紀以降新市街として発展しました。旧市街から離れたところに、まずは寺社が建ち、その門前として町ができていった。新潟というのは新市街地が拡大していった歴史を持っている。
 もう一つお話したいのは、回船問屋はどんなところに住んでいたか。大川前通(上大川前通)に住んでいたのですが、新潟が現在の地に移転して以降、明治になっても大川前通でした。回船問屋というのは権威と格式のある商売ですから、大川前通に住んでいることがステイタスでした。しかし、中州ができることによって川沿いではなくなっていった。実際の船とのやり取りは回船問屋の下で小宿と呼ばれる者たちが行っていて、彼らが洲崎や毘沙門島に住んだ。より湊、川に近いところに実際の港湾機能を担う人々が住むような、住み分けが行われていました。新潟の港町は日本海海運の流れの中でさまざまな発展をしてきたということ、そして川の流れによっても大きく変化をしてきたということを強調しておきたいと思います。
 本当に時間オーバーで申し訳なかったですが、よろしければ懇親会で御質問いただければと思います。本日の講演はこの辺で終了させていただきます。御静聴ありがとうございます。


司会

 御静聴ありがとうございました。いま一度、原先生に大きな拍手をお願いします。


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